種田山頭火のホームページ

種田山頭火(たねだ さんとうか)略年譜


年代 年齢 おもな出来事
明治15年(1882) 0歳 12月3日山口県防府市西佐波令八王子1390、種田竹治郎長男として生まれる。
母フサ。竹治郎は壮大な邸宅を持ち、大地主。本名正一(のち出家して耕畝(こうほ)と改名)。
明治22年(1889) 8歳 防府松崎尋常高等小学校に入学。
明治25年(1892) 11歳 3月6日、母フサ自宅の井戸にて投身自殺。
母の死後は主として祖母の手で育てられる。
明治29年(1896) 15歳 三田尻私立周陽学舎(3年制中学)入学。
明治32年(1899) 18歳 県立山口中学4年編入。
明治34年(1901) 20歳 山口中学卒業。東京私立専門学校予科へ入学。
明治35年(1902) 21歳 右卒業。早稲田大学文学部文学科入学。
明治37年(1904) 23歳 早稲田大学を疾病のため退学。
7月、大道村にて山野酒造場を買い受け、種田正一名義にて、父ともに酒造業を経営す。
明治42年(1909) 28歳 山口県佐波郡和田村高瀬、佐藤光之輔の長女サキノと結婚。
明治43年(1910) 29歳 長男健生れる。
(大逆事件で幸徳秋水等検束さる)
大正2年(1913) 32歳 荻原井泉水に師事して『層雲』に出句。『郷土』を創刊す。
大正5年(1916) 35歳 種田家破産。2年連続して酒蔵の酒が腐敗したことが原因。
父は他郷に出奔。山頭火は妻子とともに熊本に至る。市内下通りにて額縁屋「雅楽多」を営む。
大正8年(1919) 38歳 東京に出て、あるセメント工場に勤めるも続かず。
大正9年(1920) 39歳 11月、妻サキノと戸籍上離婚。
11月18日より東京市役所臨時雇を拝命、一ツ橋図書館に勤務。
大正10年(1921) 40歳 父竹治郎死す。6月、東京市役所雇を拝命。
大正11年(1922) 41歳 12月20日、右退職。
大正12年(1923) 42歳 9月1日、東京にて関東大震災に遭遇。
避難中憲兵に拉致され巣鴨刑務所の留置さる。 熊本に帰る。
大正13年(1924) 43歳 某日、酒に酔い熊本公会堂前にて進行中の電車の直前に仁王立ちす。急停車して事なきを得る。
その時木庭徳治居土、傍らより現れ、市内下坪井報恩寺望月義庵和尚のもとに連行す。以後寺に住み込みて参禅す。
大正14年(1925) 44歳 3月、報恩寺にて義庵和尚を導師として出家得度(曹洞宗)。耕畝(こうほ)と改名し座禅修行。熊本県植木町在味取観音堂守となる。(尾崎放哉、小豆島南郷庵(みなんごあん)に入る)
大正15年(1926) 45歳 4月10日、山林独居に堪えられず味取を去る。一鉢一笠の行乞行脚に出る(放浪の始まり)。(4月7日、尾崎放哉小豆島にて没)
昭和2年(1927) 46歳 正月を広島県内海にて迎える。山陽、山陰、九州、四国各地を遍歴。
(金融恐慌起る)
昭和3年(1928) 47歳 正月を徳島にて迎える、9月、小豆島に井上一二を訪ね、尾崎放哉の墓参をする。
昭和4年(1929) 48歳 広島にて正月を迎える。山陽、九州行乞。11月、荻原井泉水らと阿蘇登山。
昭和5年(1930) 49歳 『層雲』1月号に出句。正月を久留米で迎える。熊本市春竹琴平町に2階1室を借り、
「389居」と称して、自炊生活。
昭和6年(1931) 50歳 熊本にて正月を迎える。仮寓を得て雑誌『389』を3号まで発行。熊本に庵を求めよ
うとしたが果たせず、更に北九州行乞。
昭和7年(1932) 51歳 大分県糸田にて正月を迎える。嬉野温泉に心惹かれたが、庵を結ぶに至らず、山口県北海岸を行乞。5月末から8月末まで川棚温泉木下旅館を宿として結庵定住をしようとしたが果たせず、小郡に至る。
6月句集『鉢の子』出版(発行人木村緑平)。9月、国森樹明氏などの好意により小郡町矢足に庵住す。其中庵(ごちゅうあん)と称す。(満州国建国。5・15事件)
昭和8年(1933) 52歳 其中庵にあり、近在托鉢。
昭和9年(1934) 53歳 1月、句集『草木塔』出版。
昭和10年(1935) 54歳 概ね其中庵にあり近在行乞。句集『山行水行』出版。8月9日、カルチモンを多量に服用。自殺未遂に終わる。12月、其中庵独座に堪えられず旅に出る。
昭和11年(1936) 55歳 岡山にて新年を迎える。句集『雑草風景』出版。この年旅に出ること多し。
(2・26事件)
昭和12年(1937) 56歳 其中庵に居ること多し。句集『柿の葉』出版。11月、泥酔無銭飲食のため、山口警察署に留置さる。(蘆溝橋事件)
昭和13年(1938) 57歳 其中庵崩れて庵住に堪えず。11月、山口市湯田町徳重氏所有の四畳一間の家を借りて転住。風来居と称す。(国家総動員法公布)
昭和14年(1939) 58歳 句集『弧庵』出版。3月、東上の旅に出る。死期の近いことを悟り、井上澄太に告げ、伊予の国で死にたいという。10月松山着。再度小豆島尾崎放哉の墓を詣でる。12月10日、高橋一洵の世話にて松山市御幸寺門の仮寓、澄太、一草庵と命名。(国民徴用令公布)
昭和15年(1940) 59歳 句集『鳥』出版。一草庵に居り、句会『柿の会』なる。7月、句集『鴉』出版。10月10
日午後、脳溢血にて倒れる。夕より柿の会あり。11日午前4時(推定)絶命。長男健
満州密山より納骨に来る。

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種田山頭火

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